カースト制度 初期の形態
私達が学校で習うカースト制度と、
インドの文化“ヴァルナ・ダルマ”は大きく違います。
「カースト=人種差別」と思う人がほとんどだと思います。
しかし、実際には「ヴァルナ(グループ)・ダルマ(役割)」という文化であり、
人種差別ではありません。適材適所の制度だったのです。
カースト制度という人種差別はなかった
インドの伝統的な文化での「ヴァルナ・ダルマ」というのは、
①ブラーンマナ(バラモン)
②クシャットリヤ
③ヴァイシャー
④シュードラ
という4つのグループがありました。
それぞれのグループに、それぞれの役目があったのです。
①ブラーンマナ(バラモン)
聖典を学び、教え、様々な儀式をする人達。お金を所持することなく、
明日の事に心配しないで良いように、
周りの人に衣食住を支えてもらっていました。
②クシャットリヤ
国を統制し守る王や戦士
③ヴァイシャー
商売をする人
④シュードラ
①②③を支える人
これがヴァルナ・ダルマと呼ばれる制度でしたが、
イギリスがインド侵略の際に、根強い文化を壊さなければ、
新しい文化を取り入れることは難しかったので、
「人種差別だ、人種差別は良くない、今すぐこの制度を廃止しよう!」と
ヴァルナ・ダルマは崩壊しました。
ヴァルナ・ダルマは悪だったのか?
ヴァルナ・ダルマがあった当時は、人々は自分のすべきことに専念し、
争いや競争、そこから生まれるコンプレックス、
やりたいことが見つからない迷子、
自分探しの旅に出る必要の無い、平和な時代でした。
生まれによって、ヴァルナは決まっていたので、皆それに従って生きていました。
実際はお互いに支え合う、とても良い制度だったのです。
人々はどのヴァルナに対しも優劣をつけてみることなく、
社会の中での役割と認識していたのです。
日本の教育だとシュードラはいじめられていたかのように教えられていますが、
聖典を学び、教え、それに専念しているブラーンマナが誰かをいじめるとは、
なんともおかしな話です。
もしそうだとしたら、ずいぶん前に、
農民一揆の様にシュードラの反乱が起きて、
イギリス侵略前にヴァルナ・ダルマは崩壊していたでしょう。
ヴァルナ・ダルマを崩壊させて良かったのか?
ヴァルナ・ダルマが崩壊してからインドの混乱は大きくなります。
ヴァルナ・ダルマは自分の生まれもった質に見合った役割をしていました。
しかし、現在では、自分に見合っていないのに、
お給料の良い仕事に就きたがって、それが叶わずにコンプレックスを感じ、
人と自分を比べ競争し、足の引っ張り合いをする争いの社会です。
仕事に対して優劣をつけてみる社会になっていますが、
本来、仕事に優劣をつけることは出来ません。
どの仕事も無くてはならないから存在しているわけで、
お金は何より力がある、という考えになっていくと、
稼げる仕事が優位で、稼げない仕事は劣位と考えるようになってしまいます。
「そこに助け合い、支え合いという考えがなくなってしまった」と
スワミジはお話されます。
それは「車のどのパーツが大切ですか?」と言っているのと同じです。
エンジンが無くては動かないし、ハンドルが無ければ操作出来ないし、
ブレーキが無ければ止まれないし、
ラジエーターが無ければエンジンの熱が上がりすぎて
エンジンは動き続けることが出来ません。
どのパーツが大事でどのパーツが大事でない、ということではなく、
全てのパーツがきちんと働いて、きちんと動く車として機能するのです。
ある時からは、カースト制度を完全になくす為に、
ブラーンマナ出身の人達が政府の仕事に就くことが許されなくなり、
知性の高いブラーンマナ出身のインド人は、
次々と外国へと働きに行くようになったそうです。
アメリカでのインド人の医者、
エンジニアの率の高さがそれを物語っています。
何をしていても、自分が社会の一員として役目を果たしていれば、
そこに負い目を感じる必要はありません。
そして、与えられている仕事に適切に取り組む姿勢が自己成長につながるので、
実際は、仕事の内容で判断されることではありません。
どのような仕事をしていても、
1、その仕事に専念し、誠実に、正直に行うこと。
2、自分に合う分野を見つけること。
3、自分の仕事が好きでないのであれば、好きになる努力をすること。
これらが大切です。
社会の一員として存在しているのであれば、
社会の歯車の中での役割を担わなくてはなりません。
そして、その歯車に優劣はありません。
どれかの歯車が壊れて動かなければ、
全ての歯車は動かなくなります。
仕事は生きていく為に必要なお金を得ることでもあり、
社会の一員として社会に貢献し、
自己成長する場でもあります。
Yoga space side-A 講座情報